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林田力『東急大井町線高架下立ち退き』(Driving out Inhabitants under the Elevated Railway of Tokyu Oimachi Line)は東急電鉄による東急大井町線高架下住民追い出し問題を取り上げたノンフィクションである。東急電鉄は東急大井町線高架下(ガード下)住民に一方的な立ち退きを要求している。Tokyu Corp. is driving out inhabitants and tenants under the elevated railway of Tokyu Oimachi Line.

ボワロ&ナルスジャック著、大久保和郎訳『技師は数字を愛しすぎた』(創元推理文庫)はフランスの推理小説である。パリ郊外の原子力関連施設で技師が殺害され、核燃料チューブがなくなった。この核燃料チューブは爆発と放射能汚染でパリ市の多くの部分を壊滅できるものである。ところが、犯行現場に人が出入りした形跡がない。密室ミステリーである。

第二次世界大戦の記憶も残っている1958年に出版された書籍であるが、福島第一原発事故を抱える現代日本で読めば緊迫感は一層高まる。福島第一原発事故は原子力発電の安全神話を壊滅させた。確かに原子炉が相対的に頑丈にできていることは認めてもいい。しかし、どれほど格納容器が頑丈であろうとも、外部からの電源供給がなくなれば危機的状況に陥ることが福島原発事故で判明した(林田力「福島第一原発事故で世界中に脱原発の動き」PJニュース2011年3月23日)。

いくら格納容器を頑丈にしても安全は確保できない。現在の福島原発事故でも原子炉よりも核燃料プール倒壊の危険性が注目されている。その意味で巨大な施設を破壊するというような壮大なスケールではなく、人が抱えて持ち運べるような核燃料チューブで恐怖を描く視点は興味深い。

また、『技師は数字を愛しすぎた』が放射能汚染の危険性を抽象的に描いている点も興味深い。目に見えず、臭いもない放射能の害は想像しにくい。『技師は数字を愛しすぎた』でも深刻な事態になる可能性がある状況でも、現実感の乏しい漠然とした不安になっている。福島事故後に放射能汚染に敏感になった「放射脳」と揶揄される連中にとっては『技師は数字を愛しすぎた』の登場人物の言動は鈍感に見えるだろう。

しかし、福島第一原発事故後の日本でも放射能の害をめぐって情報が錯綜した。不安ばかりが一人歩きした面もある。意図的に危険性を煽るデマゴーグに乗せられたとの反省もある。その意味で『技師は数字を愛しすぎた』で描かれた漠然とした不気味さや不安感が正味のところとなるだろう。

肝心の密室殺人であるが、ステレオタイプなミステリー観ではルール違反と受ける向きもあるかもしれない。犯行時には誰も部屋に入らず、誰も部屋から出なかった。不可能殺人であり、捜査は行き詰まる。そこで発想を転換する。誰も部屋に入らずに誰も部屋を出ない状態での殺人が不可能であるならば、その前提を疑ってみる。この発想は新鮮である。(林田力)
http://www12.atpages.jp/~hayariki/haya/1/faqindex.htm
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マーセデス・ラッキー『魔法の代償』は架空の王国ヴァルデマールを舞台としたファンタジーである。原題は『Magic's Price』。ヴァルデマール国を中心とした壮大な物語「ヴァルデマール年代記」の一冊で、伝説的な「魔法使者」ヴァニエルの生涯を描く「最後の魔法使者」三部作の完結編である。ヴァルデマールは中世ヨーロッパのような社会であるが、特別な素質を持った人々が魔法や超自然的な能力を使える世界である。

ヴァルデマールの国王ランディルは原因不明の病に侵されていた。あらゆる治療に成果はなく、若き詩人ステフェンが国王の苦しみを和らげるために連れてこられた。ステフェンの歌声によって国王の苦しみが薄れる。

そしてヴァニエルとステフェンは互いに惹かれあう。上巻は二人のじれったい恋の駆け引きに多くの紙数が割かれている。最後を除いて魔法を駆使した緊迫するバトル要素は乏しい。ヴァルデマール国の日常が綴られているが、その内容には現代社会にも通じるものがある。

第一に過労死である。ステフェンは類い希なる能力のために治療者達の研究材料になるが、治療者達に自分の能力を示し続けて精力を消耗してしまう。優れた能力者でも有限という点でリアリティがある。消耗したステフェンを救ったものは友人メドレンのアドバイスであった。

治療者の依頼を嫌味たっぷりに断るステフェンの演技が魅力的である(155頁)。頑張ることを美徳とする特殊日本的精神論とは対照的である。日本には過労死という翻訳不可能な現象が起きている(林田力「過労死概念の変遷」PJニュース2011年3月3日)。メドレンのように助言する友人とステフェンのように断る勇気が過労死防止になる。

第二に職業差別的発想の克服である。物語世界では資格を持った魔法使いを「魔法使者」、それ以外の能力者を「使者」と呼ぶ。魔法使者の方が単なる使者よりも格上というイメージが抱かれている。実際は魔法使者と使者は能力の種類の相違による区別であり、ある分野では魔法使者よりも使者が優れている。現代社会でも単なる役割の相違を上下にランク付けする発想がある。この固定観念を改めようとするヴァニエルの戦いは現代にも通じるものである。

第三に差別的発想の克服である。ヴァニエルには「共に歩むもの」としてイファンデスと呼ばれる馬の姿をした超自然的存在がいる。外見は馬そのものであるため、知らない人からは知性を持った存在として扱われない。

知っているステフェンでもイファンデスが見かけ通りの存在でないことを自分に言い聞かせなければならなかった。ところが、ヴァニエルの母のトリーサは貴婦人の客人に対するように自然にイファンデスに話しかけた。これを見てステフェンは愕然とする(302頁)。

現代社会にも外見による差別はある。差別はしてはいけないと思うあまり、不自然になることもある。少なくともステファンの境地は心がけているが、トリーサの境地は容易ではない。

上巻のラストで穏やかだった日常が急展開する。ヴァニエルの最後について意味深長な暗示も登場した。魔法使者の最後を語ると思われる下巻に注目である。

『魔法の代償』上巻のラストでヴァニエルは、あまりにあっけなく敵の攻撃を受けてしまった。下巻では攻撃が偶発的なものではなく、陰謀の存在が仄めかされる。同時に敵対勢力の卑劣さも浮き彫りになる。それはヴァニエルの台詞で表現されている。

「ぼくの敵はぼくと面と向かいあおうとせずに、他人を通じてぼくを攻撃してくる」(66頁)

これは東急不動産だまし売り裁判で悪質な不動産業者と闘った経験のある林田力にも思い当たる内容である(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社)。ヴァニエルは物語世界の中でも圧倒的に強力な魔法使いである。そのような存在と対等に戦える敵キャラクターを安易に登場させるならば物語の世界観を破壊する。敵が卑怯者であることは、ある意味で必然的である。

そして卑怯者である代償として、この敵キャラクターは、読者の印象に残らないまま退場する。バトルものでは敵ながらカッコいいという魅力的なキャラクターを登場させ、主人公を圧倒するシーンを用意する例が多い。これに対して『魔法の代償』では卑怯者には見せ場すら与えないという徹底ぶりである。反対に戦闘能力では足手まといになるステフェンも物語の中ではヴァニエルに同行する存在意義が与えられている。

下巻でも現代社会に通じる含蓄は健在である。魔法使者のサヴィルはテレポーテーションの効果のある門の魔法で体力を消耗してしまう。そのために人間が快適に座ったままで旅ができる技術の進歩を夢想する。これは現代文明の鉄道や飛行機そのものである。サヴィルは、そのような旅は「見知らぬ人々の力量を信じてわが身を委ねることになる」と考える(20頁)。高度に分業が確立した現代文明への皮肉にもなる。

魔法の代償では刊行済みのヴァルデマール年代記で言及されていた様々なエピソードや人物について語られる。それが作品世界を豊かで一貫性あるものにしている。作者が作品世界を大切にしていることが分かる。(林田力)
http://www.hayariki.net/hayariki3.htm#11
クラーク・アシュトン・スミス著、大瀧啓裕訳『アヴェロワーニュ妖魅浪漫譚』(創元推理文庫)は幻想的なホラー短編集である。フランスの架空の一地方アヴェロワーニュの中近世の年代記と、オカルト現象を扱った降霊術奇譚から構成される。

アヴェロワーニュ年代記は「怪物像をつくる者」で始まる。ローマ・カトリックが絶対的な権威を有している中世フランスを舞台とするが、キリスト教が邪悪な存在に無力であることが浮かび上がる。読者をアヴェロワーニュの世界に誘う入口にふさわしい。

続く「アゼダラクの聖性」ではカトリックの司教にまで背教者が入り込んでいる。それを告発しようとする修道士が主人公であるが、物語は背徳の司教との対決という予想から大きく外れた展開となった。

「イルゥルニュ城の巨像」は死の間際に社会に復讐しようとする降霊術師の物語である。オカルトにはオカルトで対抗する構図を描く。

「アヴェロワーニュの媾曳」は森で逢引しようとして異界に囚われたカップルの物語である。これまでの短編は人間の邪悪な意思の話であったが、ここからは人外の現象が主題になる。続く「アヴェロワーニュの獣」は本書では珍しくSF色のある作品である。未来を描くだけがSFではないと再確認させられる。

「マンドラゴラ」は魔法使い夫婦の話である。闇に葬られた死者の怨念が殺人の事実を明らかにするという展開はホラー作品の定番中の定番である。ここでは魔法や錬金術の原料として馴染みのマンドラゴラを小道具として上手に使っている。

「ウェヌスの発掘」は修道院の敷地から発掘されたウェヌス像の物語である。ウェヌス(ヴィーナス)はローマ神話の美の女神である。キリスト教によってローマ神話は抑圧されたが、ここではウェヌス像が修道士を翻弄する。

「サテュロス」「シレールの魔女」では森が魔物の棲み、異界に通じる領域としてクローズアップされる。以下の文章が示している。

「森には人間にとって有害なものが出没し、キリストやサタンよりも古い原初の邪悪な霊もいる」(201頁)

ここには自然と人間を対立的に位置付け、人間の征服対象と捉える西洋的な自然観が投影されている。この種の西洋思想が環境破壊をもたらしたとして自然と共存する東洋思想の優越を語るナイーブな議論がある。森に安らぎや親しみを感じ、ロハスな生活を追求することは結構である。

しかし、それは人間に飼いならされた、人間に都合の良い自然である。人間の世界とは異質な他者として自然を認めることができるかが問われる。その点の発想が弱い日本では自然を破壊して超高層ビルを建設し、周辺や屋上を緑化することで自然と調和した再開発とデベロッパーが自賛するような勘違いが生まれる。その典型が東急電鉄や東急不動産が東京都世田谷区で進める二子玉川ライズである。

日本でも古くは森を魔物の棲む世界という見方があった。分かりやすい例に映画『もののけ姫』の世界がある。そこでは森は「もののけ」の棲む場所で、人間との間に勢力新生が起きていた。シシ神が討たれた後に森は復活するが、それは最早人を寄せ付けない森ではなくなってしまった。

「サテュロス」では異界の存在は人間にとって害をなすものであった。その社会的視点は「シレールの魔女」で変わらないが、主人公の選択は異なっていた。続く「物語の結末」でも異界の存在に対する抗い難い魅力を歌い上げる。

一方で年代記最後の「蟾蜍のおばさん」は「シレールの魔女」や「物語の結末」のロマンスに冷や水を浴びせる内容になっている。訳者は「蟾蜍のおばさん」が年代不詳のために最後に置いたと説明するが(412頁)、これを最後にすることで宴の後の空しさ寂しさのような印象を与える。

降霊術奇譚にはオカルトにのめり込んだ人物が破滅するストーリーが多い。「アフォーゴモンの鎖」は神に背いて禁忌の術を用いた神官の絶望が描かれる。「魔力のある物語」は先祖の体験とリンクする物語である。

「妖術師の帰還」は悪人が怪奇現象によって裁かれる勧善懲悪型のホラーである。現代日本の幽霊が出るマンションでも起きそうな話である。「分裂症の造物主」は主人公にとって救いがない結末であるが、神と悪魔について哲学的な内容を含んでいる。

「彼方から狩り立てるもの」はインスピレーションを得ようとしてオカルトの世界に足を踏み入れた芸術家が、そのために最愛の人を失ってしまう。その後の「塵埃を踏み歩くもの」は対照的に注意深く節度を持ったオカルト研究者に降りかかった話である。広い意味では本人の不注意に属するが、他者の行為が原因であると明らかにするミステリー色が濃い。(林田力)
http://hayariki.net/hayariki2.htm#24
東急電鉄が住民追い出しを進める東京都品川区の東急大井町線の高架下は現代では貴重なレトロな趣のある場所である。再開発ビルには見られない生活感溢れる店舗が並ぶ。建物には「東急は耐震工事を口実に古くからの住民の追い出しを図っている!!」「生活苦に陥る住民 東急は非道である」の抗議文が掲げられている。
また、店舗の入口や自販機の側面には長文が掲示され、そこには「東急は鬼か」という表現がある。それによると、東急電鉄は高圧的態度で交渉の終結を図ろうとしている。立ち退きを受け入れない住民に対しては交渉を打ち切り、裁判という強硬手段に訴えて立ち退きを迫っている。住民側は長年住み慣れた家を追い出される急激な環境変化に対応するために時間が欲しいと主張しているに過ぎない。生活設計を組み立てるためには精神的にも経済的にも時間が必要である。それを東急電鉄は聞く耳を持たず、頑なに拒否していると批判する。
立ち退かされた店舗は入口がベニヤ板で塞がれている。東急建設による家屋解体工事が行われている場所もある。営業を止めた中華料理店では、店の前に備品などを並べ、「ご自由にお持ちください」との貼り紙があった。地域コミュニティーが破壊されている。二子玉川ライズと共通する街壊しである。
http://hayariki.net/tokyu/ohimachi.html
99歳の母親と60代の娘に家には東急社員が女所帯と侮って足繁く通って強い圧力をかけたという。東急が提示した条件は1年分の生活費程度に過ぎない。その程度の金額では1年後には「親子心中しなければならないわね」と娘が言ったところ、東急社員は薄笑ってそっぽを向いたという。住民は東急を「鬼以上の冷淡さ」と評している(「99歳の母親は『もういいよ』と涙ながらに…」『【東急】高架下のホームレス化を強いられる住民【大井町】』2011年7月26日)。
住民らは2011年8月18日には渋谷の東急電鉄本社近くで抗議のビラ配りをした。10月17日には東京地方裁判所門前でもビラを配布した。11月30日には東京都庁で記者会見を開催し、東急電鉄の非道を訴えた。今後もあらゆる機会と手段を求めて幅広く世間に我々の窮状を訴える活動を続けていくつもりとする。
http://ameblo.jp/we-need-everyday-life/
コンタクティーは宇宙人と会ったと主張する人である。2012年はアセンションが到来すると話題である。21世紀に入る前はノストラダムスの大予言「恐怖の大王」であった。それがアセンションになった。世紀末演出をしたがる。恐怖は愛より強い。日本人は恐怖が好きで、神経質な傾向がある。アセンションは作られたものではないか。

宇宙戦争物の映画は、あまり好きではない。ワンパターンである。月の裏側にダークサイドがあるという話になる。スピリチュアル系は映画に洗脳されている。何があるかは分からないので、楽しく生きましょう。

これは二次会でも話題になった。

参加者「もし2012年が無事に過ぎたら、今度は別の世紀末演出が起こされるのか」

林田力「聖書には最後の審判が書かれている。いつでも『最後の審判は近い』と言える」

ギリシアの財政赤字が大きな問題である。3月を迎えられるか。3月はアメリカの第一四半期である。不動産の担保価値が下がっている。今は貸し渋り、貸しはがしが酷い。貸し手は相手の返済能力を見込んでではなく、担保を取得するために貸す状態である。東日本大震災でシステムトラブルになった銀行があったが、実は取り付け騒ぎだった可能性がある。銀行は金をあまり持っていない。

新しいイノベーションが来るのではないか。アメリカは計画的に倒産するのではないか。プロレスのような世界で、最初からシナリオが決まっている。3月は迎えられないのではないか。
http://hayariki.net/hayariki1.htm
本書(山口敏太郎『とうほく妖怪図鑑』無明舎出版、2003年)は、東北の妖怪や伝承を地域別に紹介した書籍である。一つのテーマを見開き2頁で紹介しており、読みやすい。妖怪の出現が伝承された場所を紹介するため、観光案内にもなる。「戦争に行った鹿島さん」(16頁)や「八甲田山の兵士の怨霊伝説」(106頁)のように近代になってからの伝承もあり、妖怪が前近代の遺物ではないことを示している。実際、口裂け女のように現代の都市伝説も存在する。
本書は伝承に社会学的な分析を加えている点も特色である。たとえば「狐が嫁になりすます」怪談は共同体の秩序を見出す異人としての嫁への警戒感が反映されていると指摘する(33頁)。実際、現代でも相続紛争の泥沼化の原因として嫁の口出しが指摘される灰谷健司『相続の「落とし穴」 親の家をどう分ける?』角川SSコミュニケーションズ、2008年、58頁)。妖怪は現代に通じるテーマである。(林田力)
http://hayariki.net/
林田力 新聞
http://hayariki.net/nikkan.htm
林田力こうして勝った
https://sites.google.com/site/hayariki9/
宇宙人ブームには疑問がある。そもそも宇宙「人」と決めつけるのか。宇宙豚かもしれないし、宇宙ミミズかもしれない。宇宙人ではなく、宇宙生命体ではないか。宇宙系の話を否定するつもりはない。しかし、地球のことで忙しすぎて、宇宙のことまで調べられない。すがりつくだけならば創価学会と同じであり、止めた方がいい。

アセンションやフォトンベルトは演出されている。それを利用して何かしていようとしている。ここで橘氏は「アセンション・プリーズ」とのギャグで会場を笑わせた。

『猿の惑星』の猿は日本人のことを指している。それを日本人は喜んで観るめでたい国民である。(橘匠氏の講演会「言論の自由の限界に挑む」)
http://www.hayariki.net/poli/japan111027.html
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